郷土探訪2019 

 

 更新日:2019/08/13



東秩父村訪問:東秩父村は比企地方の北西部にあり、村の8割が山林で、埼玉県では唯一の村である。東側は寄居町、小川町、ときがわ町に隣接し、西側は外秩父連峰に囲まれている。東秩父村は「和紙:細川紙」で全国的に有名であり、「石州半紙」/島根県、「本美濃紙」/岐阜県とともに、「和紙:日本の手漉和紙技術」として、平成26年に「ユネスコ無形文化遺産」に登録されている。「和紙の里」に続いて、県道11号沿いの槻川渓流にある「ヤマメの里」、秩父高原にある「彩の国ふれあい牧場」を訪問した。真夏日での訪問ではあったが、空気が澄んで、湿度も低く、快適な時を過ごすことが出来た。また、「秩父地方の蕎麦」は、期待通りに美味しかった。

和紙の里: 東松山の自宅から国道254号バイパスに入って北上し、嵐山町の志賀交差点で国道254号(旧道)に左折し、そのまま道なりに県道11号を直進すると、やがて「道の駅:和紙の里ひがしちちぶ」の看板に出遭う。自宅からは、1時間程度のドライブであった。和紙の里では、複数の施設(和紙製造所、食事処、紙すき家屋、農産物・特産品直売所など)が中央の広場/日本庭園を囲むように配置されている。正面に位置する「細川紙、紙すき家屋」が主役のようであり、前庭の小川には多数の鯉が泳いでいた。

ヤマメの里:「ヤマメの里親水公園」は、県道11号線に沿った「槻川渓流」を利用した公園である。毎年8月第1周には「親水公園ふれあい祭り」が開催され、ヤマメの掴み取り、ヤマメの炭火焼き、出店などで賑わうとのこと。今回は平日の訪問ではあったが、水遊びする人々、バーベキューを楽しむ家族、などが清流を楽しんでいた。帰途、県道11号から脇道(県道361号)に入り、「彩の国ふれあい牧場」を訪ねてみた。秩父高原にある牧場からの前方眺望は素晴らしかった。


夏の獅子舞:4月の「春の獅子舞巡り」に引き続き、7月は「夏の獅子舞巡り」を敢行した。東松山市HP(更新日201212月)によると、夏祭りで獅子舞が奉納されている地区は、野田・赤城神社、上唐子・氷川神社、神戸・神戸神社、下唐子・唐子神社で4ヶ所である。ところが、現地を訪問してみると、野田・赤城神社では「演舞者が腰を悪くしたため奉納断念」、上唐子・氷川神社では「継承者がいないので奉納は中止している」との説明を受けた。「神戸神社の獅子舞」と「唐子神社での獅子舞」の2ヶ所については、「広報ひがしまつやま(7月号)」に掲示されたスケジュール通りに開催された。前記東松山市HPによると、上野本・八幡神社、西本宿・富士浅間神社(および野田・赤城神社)の各地区で、10月の秋祭りに獅子舞が開催されるとのことである。春、夏、秋の3冠を目指して、「秋の獅子舞巡り」を予定する。

神戸神社の獅子舞:神戸の獅子舞は江戸後期に始まったとされている。境内における獅子舞奉納に先立ち、境内から外に出て、法螺貝を先頭にした「村廻り(地区の方に祭りの開始をふれ歩く)」を行っていた。境内には、土俵が造られており、獅子舞はこの土俵内で奉納された。獅子舞は子供達が担い、土俵外の所定位置に陣取る大人が笛を吹き音頭を担当していた。当日(7月27日)は非常に暑く、村廻り・獅子舞奉納を演じる子供達は大変そうであったが、周囲の大人が水分補給等に十分に気遣っていた。地元の文化財を保存しようとする地区一丸の意志が感じられた。

唐子神社の獅子舞:下唐子の獅子舞は武田信玄の家臣馬場美濃守の子孫が、今から350年ほど前に「長寿の神様である白髭大明神」を祀り、獅子舞を奉納したのが始まりとのこと。神戸地区の子供獅子舞と同じく、「はやしっ子」1人、太鼓を打ち舞う獅子3匹、土俵4隅に立つ花笠巫女4人、バックグラウンドで笛を吹く大人衆、から構成されていた。午後1時の法螺貝を合図に、唐子神社下にある社務所広場にて獅子舞が開始された。所定のプログラムを終了した後、法螺貝を先頭にした縦列体制で階段を上り、「社務所」から「神社社殿」に移動した。この移動は「村廻り」に代るものとの説明を受けた。小休止の後、社殿広場で、獅子舞が再開された。


大谷伝説の里:大岡地区主催の6月・月例市民ウオーキング(比企氏伝説・比丘尼山コース)に参加し、鎌倉幕府成立の立役者であった比企一族ゆかりの地を探訪した。探訪先は、若狭の局が夫源頼家への想いを断ち切るために形見の串を沈めたとされる「串引沼」、比企禅尼が草庵を営んだとされる「比丘尼山」、江戸時代を通じて当地を治めた旗本森川氏の菩提寺で二代将軍源頼家の位牌が残されている「宗悟寺」、大雷神社の「参道入口」であった。オランダ風車が特徴的な大岡市民活動センターを起点とする1周約6kmの散策コースであり、100人超が参加した。木々が生い茂る山中、広々とした田園の沿路、などからなる散策路は良く整備されており、木々が直射日光を遮り、涼風が折々に吹き抜ける、快適なウオーキングコースであった。

市民活動センター

串引沼

比丘尼山

宗悟寺

大雷神社参道入口

散策路



青鳥城址(東松山石橋):5月の「比企郡城館跡群(菅谷館跡・松山城址・杉山城址・小倉城址)」に引き続き、青鳥城址を探訪した。自宅(美土里町)からは徒歩30分(2,500歩)程度の近距離にある。比企丘陵と岩殿丘陵に挟まれた東松山大地上にあり、城全体の規模は東西約700m、南北約400mであり、中世城郭としては巨大なものであったとのこと。築城は1470年代と推定されている。現状では、宅地、国道、高速道路などにあちこち削られ、遺構の残存状況は部分的であるとのこと。国道254号線(バイパス)の「きじやま交差点」近くの私道が本郭跡への案内路となっており、土塁跡らしき土手に向かって緩やかな坂を登って行くと、「県指定史跡:青鳥城址」の石碑に出遭う。この石碑を過ぎると、きれいに整地された平坦地/本郭跡が広がる。この本郭跡には、多数本(20本程)のイチョウの木が植えられている。また、本郭跡に向かう散策路には、「左側に竹林」・「右側に多種のアジサイ」が植栽されており、快適な散策環境となっていた。


 比企地方には、鎌倉・室町時代から戦国時代にかけて築城された69ヶ所の城館跡がある。城館跡のうち、菅谷館跡・松山城跡・杉山城跡・小倉城跡が城郭規模や築城技術の特徴、良好な保存状態から、「比企郡城館跡群」として国史跡に指定されている。これら4ヶ所の城館跡のすべてが、自宅(東松山)から車で半時間程度の近距離にあるので、草が生い茂る(?)前に、探訪することにした。城館跡を目の前にしても、「地元の比企地方が、わずか4百年程前には、歴史上の戦国武将が領土・覇権を争い、多くの戦死者を出した合戦の地であった」とは信じられなかった。なお、比企地方の城館は、最終的には、豊臣秀吉の小田原征伐によって開城・落城したとのこと。

 菅谷館跡(武蔵嵐山町):菅谷館跡は、鎌倉時代の名将「畠山重忠」の居館跡と伝えられているが、現在みられる遺構は戦国時代に拡大整備されたものとのこと。面積は東京ドーム約3個分の広さもある。「埼玉県立史跡の博物館」が併設されており、搦手門跡(裏門跡)が博物館の出入口に利用されている。都幾川に面した断崖の上に本郭があり、4つの郭(二の郭・三の郭・西の郭・南郭)が本郭を取り囲むように配置されている。下記の写真は、順番に、館跡の平面図、畠山重忠像(二の郭)、建物跡(三の郭)、復元木橋(三の郭~西の郭)、大手門跡(西の郭)、生門跡(本郭)である。館跡の全体が公園のように綺麗に手入れされているので、快適な散策が出来た。

松山城跡(吉見町):三方を市野川に囲まれた比企丘陵の先端に築かれた平山城である。15世紀中ごろ、古河公方足利氏・山内上杉氏@鉢形・扇谷上杉氏@河越との軍事的緊張関係の中で築かれ、武蔵と上州を結ぶ戦略上の要地として絶えず争奪戦が行われたとのこと。県道東松山桶川線沿い(武蔵丘短大脇)の「城跡入口」から散策路を登っていくと、石造りの階段に出遭い、その上の平坦部に本曲輪跡があった。曲輪の配列は、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪が一直線に並ぶ連郭式で、これらを囲む大小の腰曲輪が配置されているとのこと。ただし、散策路が起伏が大きくかつ曲がりくねっていて、かつ、生い茂る木々が視界を遮っていたため、これらの特徴を把握するには至らなかった。(なお、本曲輪跡に建っているはず(?)の石碑/松山城跡碑を探したが見つからなかった?)

杉山城跡(武蔵嵐山町):嵐山町役場や玉ノ岡中学に隣接する丘陵の尾根に築かれた山城跡である。この城の特徴は、土塁・空堀が複雑に入り組んでいることである。敵にとっては混乱する迷路となり、城方にとっては敵の目をかすめて郭間の連絡をとる通路としても機能したとのこと。城跡全体が綺麗に手入れされており、傾斜も比較的緩やかなことから、快適な散策を楽しむことが出来た。

 小倉城跡(都幾川町):槻川を挟んで嵐山渓谷の向かいに位置する丘陵上に築城された山城跡である。城跡入口にある大福寺が目安となり、場所の特定は容易であった。頂上の本郭までの道のりは急傾斜であり、時間的には短かったが、結構疲れた。本郭跡は平坦に伐採されていた。この城の最大の特徴は、石垣を随所に築いていることである。実際、いたるところに、立派な石垣跡が残されていた。


団十郎稲荷祭(だんじゅうろういなりさい):団十郎稲荷社(通称穴宮社)は箭弓稲荷神社の境内にあり、7代目市川団十郎が奉納した祠が始まりとのこと。毎年春(5月)と秋(10月)に、芸能関係の方々が、雅楽演奏や舞踊などを奉納する祭典がある。春の祭典は特設舞台/神楽殿での舞踊・演技がメインであり、秋の祭典(観月祭でもある)は夕刻から雅楽の奉納演奏が行われるとのこと。今年の春の祭典は5月26日(日)に開催された。演目は「大宮住吉神楽:八股遠呂智退治の座」であった。楽しいひと時であり、約50分の演技があっという間に過ぎた。


春の獅子舞:東松山の市指定無形民俗文化財のほぼ半数の6件が獅子舞関連である(野田赤城神社、上野本八幡神社、古凍鷲神社、唐子神社、神戸神社、宮鼻八幡神社)。東松山市HPによると、「東松山は、県内でも有数の獅子舞地域であり、多くの獅子舞がある」とのこと。西日本に多い「胴体部分に1人もしくは複数の人が入る神楽系獅子舞」ではなく、「1人が1匹を担当し、腹にくくりつけた太鼓を叩きながら3匹の獅子が舞う風流系獅子舞」が主流であるとのこと。獅子舞の開催時期には、春祭り(4月)、夏祭り(7月)and/or 秋祭り(10月と11月)の3通りがある。今春は、宮鼻八幡神社(4月7日に実施)と古凍鷲神社(4月14日に実施)の2ヶ所を参詣したが、両神社ともに、特徴のある態様であった。

宮鼻八幡神社:神社に参詣すると、境内に植えられている巨木に圧倒される。市指定の文化財になっている「ケヤキ」で、樹齢約700年であるとのこと。社殿内には、市指定の有形民俗文化財である色彩豊かな「獅子舞道具一式」が陳列されていた。なお、獅子舞自体は、後継者不足により、現在は行われていないとのことであった。

古凍鷲神社:春季例大祭として実施される「オシッサマ(お獅子様)」では、「さらしが付いた雄と雌の2頭の獅子頭を持った数人の行列が、神社から出発し、1日をかけて地域の氏子を廻る」とのこと。オシッサマは、神主が「獅子頭をお祓いする」ことから始まった。行列は、神主が先導し、それに続く、雄獅子チーム、雌獅子チーム、および、移動式の「祭囃子組」で構成されていた。古凍全体を4地区に分け、地区毎に獅子チームを結成し、リレー方式で全体を廻るとのこと。トラック荷台上の「祭囃子組」の皆さんは、粋な法被股引姿で、笛や太鼓を打ち鳴らしていました。


箭弓稲荷神社の初午大祭:初午祭は稲荷神社の縁日である。箭弓神社では、古来より、3月の初午に大祭を行っているとのこと。本年は3月10日に開かれた。境内には、花木市、刃物市、ダルマ市、いくつかの屋台が立ち、神楽殿においては、伝統行事(祭囃子、里神楽、東松山太鼓)が奉納された。箭弓稲荷神社は自宅から徒歩20分程度の近距離にあるが、東松山在住20数年において、初めての「初午祭参詣」であった。

 祭囃子は、地元町内会(箭弓町祭囃子部)により奉納された。子供達が演奏する笛太鼓をバックに、黄色の衣装を纏った「おかめ」の優雅な舞、赤装束の狐のダイナミックな演舞、雌雄一対による獅子舞、トリとして登場した「ひょっとこ」の踊りと、興味深い演目が次々に披露された。最後に、「獅子が観客の頭を噛む」なるサービスがあり、高齢者の私も噛んで貰った。ご利益があるとのこと。

里神楽は、岡田民五郎社中(プロ集団?)による奉納であった。艶やかに舞う「巫女」から始まり、「大神さま」、「ひょっとこ」、「眷属の狐」が、次々と登場し、優美な演舞を披露してくれた。相互に関連し、「五穀豊穣を祈る」物語を成しているとのこと。衣装の色彩が鮮やかで、座長によるナレーションも良かった。

 武蔵流東松山太鼓は、「ちびっ子から年配者にわたる幅広い世代で構成されたグループ」により奉納された。結成39年目とのこと。演奏が進むにつれて、いわゆる「ゾーンに入った」状態で、太鼓が打ち鳴らされた。最後には、大太鼓も参加して、フィナーレーを飾った。迫力があった。ちびっ子の頑張りが良かった。

 火伏神事:箭弓神社では大祭の前日に、火伏神事が行われている。当日は、比企地方の消防関連者、地元選出の国会議員・県会議員、地元代表者、氏子代表者が列席していた。10数台の大型消防車も集合しており、この伝統行事の重要さを理解できた。「祀事スペース」の中央には、「円形の砂炉」が形成されていた。大勢が見守る中、稲荷神の使いの「白狐」4/名が、複数の神官に先導されて、入場してきた。打上げ花火を合図に、神事が開始された。神官に呼ばれた列席者が、順次、「エイ!エイ!エイ!」と声をあげながら火伏を行った。一般客も参加することが出来た。最後には、それまでは4角で静かに見守っていた白狐が中央に集まり、リーダー白狐の合図に従って、次々と、火伏技を披露してくれた。火伏の手段は、「柄杓に酌んだ水」、「葉枝に浸した水」、「スコップですくった砂」の3つであった。一般客が使用した「火伏具」は、水菜を刻んだもので、「お守り」付きで百円であった。


上岡観音(馬頭観音)の例大祭:妙安寺(東松山市上岡)の境内にある上岡観音は鎌倉時代の創建とされ、武士が守護神として崇めていた馬頭観音を祀っている。年間で最も重要な祭祀である「例大祭」は、毎年2月19日に執行されている。絵馬市、ダルマ市、植木市、刃物市、屋台、などがビッシリと立ち並び、大勢の参拝客で賑わっていた。初めての参詣であったので、予想以上の規模と熱気に驚いた。例大祭の主役は、「行列」に参加する4頭の馬(2頭のサラブレッド:白馬/神馬と黒毛、2頭のポニー:白馬と黒毛)であった。祭祀が始まるまでは、境内に隣設されている厩で、過ごしていた。この時、馬子さんが許可してくれたので、「事前に買っておいたニンジン」を手渡しで与えることが出来た。バキバキと音を立てて食べてくれた。行列の開始時刻(11時)が近づくと、馬子さんに引かれて、妙安寺本堂に向かった。

本堂前に到着すると、馬4頭と馬子さんが横一列になって整列してくれた。写真撮影に応えるためのサービスである。予定時刻になると花火が打上げられ、それを合図に、行列が開始された。神馬を先頭にした4頭の馬、馬に付き添う馬子さん達、その後に続く10人程の僧侶からなる縦列構成であり、伝統様式に則り(?)厳粛に進行していた。向かう先は、観音堂の境内にある「馬立像」である。立像の前で、神馬を従えた僧侶により、1回目の祈願が執行された。次いで、観音堂前に移動し、2回目の祈願が執行された。「神馬」と「お祓いを受ける参拝客」が一体となったお祓い祈願であった。お勤めご苦労さん後、神馬専用の厩で、ニンジン、飼葉を与えられていた。帰宅の途中に、「馬子さんに引かれた1頭のポニー」と「歩道をパカパカと縦列行進する数頭のサラブレッド」に出遭った。例大祭に参加する地元の方と乗馬関係者の方々であろう。


川越大師喜多院:天台宗川越大師喜多院では、「再興の祖である厄除元三大師(慈恵大師)の涅槃日」である元日3日が、新年最初の縁日であり、「川越初大師/だるま市」が盛大に催される。江戸の初期に「天台宗関東総本山」の呼称が与えられると、開運厄除、家内安全等を祈願する人々が年々増え、境内には七転八起の名物「だるま市」が軒を連ねるようになったとのこと。今年は、ダルマを購入した後に、引き続いて、「小江戸川越七福神めぐり」にチャレンジすることにした。喜多院には「第三番大黒天」が祀られているはずであるが、境内は混雑を極めており、祀処に辿り着くのは大変そうだった。そこで、一先ず、お隣の成田山川越別院(第四番恵比寿)に移動し、このお寺から「七福神めぐり」をスタートすることにした。「第三番大黒天」については、妙昌寺(第七番弁財天)の後に、喜多院に戻って、参拝した。


川越七福神めぐり:川越の七福神には、第一番毘沙門天(妙善寺)、第二番寿老人(天然寺)、第三番大黒天(喜多院)、第四番恵比寿(成田山)、第五番福禄寿(蓮馨寺)、第六番布袋尊(見立寺)、第七番弁財天(妙昌寺)、と番号が付けられている。「七福神めぐり」の「御朱印」の取得方法には、(1)「共通の台紙を購入した後(300円)、七福神を巡って、御朱印(各100円が目安)を押印してもらう」基本的な方法、および、(2)「7ヶ所の御朱印が既に押印されている台紙(1,000円)を購入し、何れか一ヶ所の参拝で済ます(ことが出来る)」効率的な方法、の2通りがあった。立藏君は、方法(1)を選んだ。七福神巡りを達成した後は、満足感はあったが、さすがに疲れた。膝も痛くなった。歩数は「19,000」を超えた。最終地点となった「第一番毘沙門天(妙善寺)」では、「七福神めぐり達成」の証である日付印「平成三十一年正月」を押印して貰えた。めでたしめでたしである。

 

新年のお札

第四番恵比須(成田山)

第一番毘沙門天(妙善寺)

第五番福禄寿(蓮馨寺)

第二番寿老人(天然寺)

第六番布袋尊(見立寺)

第三番大黒天(喜多院)

第七番弁財天(妙昌寺)