郷土探訪2020

 

更新日:2020/04/04



源氏ゆかりの地:「嵐山さくら祭り」に合わせて開催予定(4/4)であった「鎌形流鏑馬の奉納」が、新型コロナウイルスの影響により、中止されてしまった。心残りであったため、鎌形流鏑馬との関わりが深い「源義賢・木曽義仲」親子の縁の地を訪問することにした。源義賢は、源氏の棟梁・源為義の次男であり、秩父重隆の娘をめとり、1152年、現嵐山町大蔵に移り住んだとされている。しかし、当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって、関東で義賢の力が増大することを恐れた源為義の長男で異母兄の義朝は、息子の義平(悪源太義平)に命じて、大蔵館を攻め込ませ、義賢とその一族を討たせた(大蔵合戦)。この時、義賢の長男木曽義仲(幼名駒王丸)はわずか2歳であったという。危うい所であったが、畠山重能(秩父氏の一族で畠山重忠の父親)と斎藤実盛(現熊谷市が本拠地の別当)に慈悲を掛けられ、信州の木曽に逃れることが出来た。嵐山町に生まれ、源氏の正しい血を引く義仲が、「木曽義仲」と名乗るのは「信州木曽で成長した」ためである。嵐山町と近隣には「源義賢・木曽義仲」親子にまつわる多くの伝承と史跡がある。特に、大蔵館跡、鎌形八幡神社、斑渓寺、などが有名である。「鎌形八幡神社」は坂上田村麻呂が勧請した社と伝えられ、鎌倉幕府成立以前の古刹である。この神社は武門、武将の神として信仰され、源義賢、源義仲(木曽義仲)、源義高(義仲の長男)3代の伝説が多く残り、源氏の氏神として信仰されている。この神社には、駒王丸(義仲の幼名)の産湯の清水が残っている。「斑渓寺」は曹洞宗の寺で、木曽義仲、清水冠者源義高(義仲の長男)、山吹姫(義高の母)の菩提寺である。斑渓寺の境内には木曽屋敷があったとされている。

大蔵館跡(大蔵神社)

鎌形八幡神社

義仲産湯の清水

斑渓寺


木曽義仲は,1180年、源頼朝の鎌倉挙兵に呼応して、木曽で「平氏追討」の兵を挙げた。それを皮切りに、源氏の一方の旗頭として、平家軍を攻め続け、遂には、京都から平氏を追い出した。京都に上がると朝廷から「朝日将軍」の称号を賜り、征夷大将軍にも任じられ、武将として最高の栄誉を勝ち得た。しかしながら、義仲を疎んじるようになった朝廷(後白河法皇)は、義仲と不和になっていた源頼朝に向けて「義仲追討」の命を出した。この命を受けた頼朝は、弟の源頼範・義経を大将とする大軍を京都へ派遣する。義仲、頼朝、平氏の3勢力が対峙する時期である。義仲軍は、西国に逃れた平家軍追討と東からせまりくる頼朝の圧力などにより、兵力を分散せざるを得ず、窮地に追い込まれていった。義仲は、滋賀県粟津ヶ原まで逃げたが、遂に討ち取られてしまった。頼朝軍はさらに西進し、長門国壇之浦(現在の山口県下関)で平氏を滅亡に追い込む。源頼朝・頼範・義経は木曽義仲の従兄弟であった。さらには、兄の頼朝は、頼朝軍の大将を務めた頼範・義経を追討し殺してしまった。源氏一族の内部抗争は凄まじいものであった。


比企三山巡り:最後の参拝先は、吉見町の岩殿山安楽寺であった。「坂東三十三観音霊場の十一番札所」であり、古くから吉見観音として親しまれてきた。真言宗智山派の寺院で、本尊は聖観世音菩薩である。東松山とは県道271号線(今泉東松山線)で結ばれている。今から約1,200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が、観世音菩薩の像を彫って、この地の岩窟に納めたことが始まりとされている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼が幼少期に身を隠していたと伝えられている。かつては、安楽寺の東約500mにある息障院(伝範頼館跡)とともに「一つの大寺院を形成していた」とのこと。ただし、残念ながら、戦国時代(1537年)後北条氏との戦乱により全ての伽藍が消失してしまった。現在の本堂、三重塔、仁王門は、江戸時代に再建されたものであり、町指定文化財になっている。

安楽寺

仁王門

本堂

仁王像(阿形)

三重塔

仁王像(吽形)

納経堂

表参道



比企三山巡り:2月は、ときがわ町の慈光寺(坂東三十三観音霊場の九番札所/創建673年)とした。開山1,300年の山寺であり、平安時代になるといっそう隆盛し、鎌倉時代になると源頼朝から戦勝祈願の寺として多大な寄進を受け、大寺院として隆盛を極めたとのこと。本尊は、千手観音(観音堂)と阿弥陀如来(本堂)である。国宝(慈光寺経、法華経一品経)、重要文化財(貞観大般若経、寛元の銘梵鐘、など)の多くの文化財が現存している。東松山の自宅からは、国道254号線バイパスと県道172号線(大野東松山線)を利用すると、慈光寺までは1時間程度のドライブ距離にある。観音堂下と宝物殿下に無料駐車場があり、慈光寺下まで自家用車で行ける。なお、山麓にある浄光寺入口バス停から山上の本堂まで徒歩で登ると、90分程度はかかるようである。

案内図

観音堂

浄光寺石碑

観音堂

本堂

般若心経堂

鐘楼

宝物殿


2月は参拝シーズンではないが、この時期(2/20)に慈光寺を訪れたのは、「ロウバイ/河津桜/梅が同時に咲いている」との情報があったからである。山麓から慈光寺に至る参道の両側には五十種以上のさくらが植えられており、春になると豪華爛漫に咲き誇るとのこと(近隣の各種さくらと共に「里さくらコレクション」と呼んでいる)。また、慈光寺は「シャガ」の群生地としても知られている。 

ロウバイ

河津桜

白梅

梅林



 

比企三山巡り:坂東三十三観音霊場の「慈光寺/九番札所/創建673年」、「正法寺(岩殿観音)/十番札所/創建718年」と「安楽寺(吉見観音)/十一番札所/創建806年」は飛鳥時代から平安時代初期に開山された名刹であり、「比企三山」と称されている。これらの名刹を年初の3ヶ月間(1月/2月/3月)に巡ることにし、地元の「正法寺岩殿観音)」を最初の参拝先とした。本尊は千手観音(観音堂)と阿弥陀如来(本堂)である。鎌倉時代初期に源頼朝の命で復興され、頼朝の妻北条政子の守り本尊であったと伝わっている。大イチョウやアジサイの名所としては幾度か訪問していたが、坂東三十三観音霊場として参拝したのは今回が初めてであった。観音堂(創建673年)、梵鐘(鋳造1,322年)、仁王門、本堂、などをあらためて観て廻った。松の内最後の日(1/7)であった。

 

 

正法寺

仁王門

観音堂

吽形

鐘楼

阿形

本堂

表参道


流鏑馬祭り@萩日吉神社(ときがわ町):萩日吉神社の「流鏑馬」は、3年に一度、1月第3日曜日(本年は1/19)に奉納される。萩日吉神社は、古墳時代末期(西暦537年)の創建とされ、東松山市とは県道172号線(大野東松山線)で結ばれている。自宅からは30分程度のドライブ距離にある。ときがわ町の流鏑馬は、鎌倉時代(1, 233年)に木曽義仲の家臣7氏によって奉納されたのが始まりと伝えられている。家臣7名は明覚郷(ときがわ町)と大河郷(小川町)の2郷に住んでいたとされ、家臣7名の子孫らが準備を担っているとのこと。流鏑馬祭りは、「午前10時からの神社参拝/交通安全祈願/鎮火祭/直会などを執行する朝まとう」と「午後3時からの流鏑馬を行う夕まとう」の2部構成であった。明覚郷と大河郷からの主役一行は、それぞれに設営した陣場で、馬の世話をするなどして、「夕まとう」が始まるまで待機していた。また、神社境内においては「小神楽」が演じられていた。神楽と境内の社叢は、流鏑馬とともに、埼玉県の文化財に指定されているとのこと。

夕まとう申の刻(午後3時)になると、大きな花火が打ち上げられ、流鏑馬祭りのクライマックスである「夕まとう」が始まった。数百人規模の観衆が見守る中、神官を先頭に、明覚郷・大河郷の一行が入場してきた。場所は、萩日吉神社と萩ヶ丘小学校の間の特設馬場である。今年が初観戦であり理解不十分ではあるが、流鏑馬の手順は、(1)馬場元(始点)で何十本もの矢を放つ(「四方固め」)、(2)「矢取りっ子/子供」と「介添役(弓持ち)/子供の父親」が走って馬場末(終点)に向かう、(3)「一の馬」の乗子が疾走しながら的に向かって矢を射る、(4)「二の馬」の乗子が疾走しながら的に向かって矢を射る、(5)馬場末で待機していた介添役(弓持ち)に弓を渡す、(6)「矢取りっ子」/「介添役」が弓を持って馬場元に走って戻る、(7)二人の乗子が全力疾走し馬場元に戻る、であった。この手順を所定回数(3回)繰り返していた。最後には、「扇(鞭)を持って疾走する」演舞も披露して貰えた。大きい神馬に騎乗した乗子(騎馬武者)の凛々しさが印象に残った。

前日は粉雪が舞う寒い日であったが、当日は気温も比較的高く、快適な祭り日和であった。大観衆とカメラマンの多さには驚かされた。道産子の小生にとっては、自宅から30分程度の場所で、「古墳時代に創建された神社で、鎌倉時代に開始された伝統行事が現在まで継承されている」などは信じられない(?)出来事であった。