郷土探訪2020



比企一族ゆかりの地/金剛寺(川島町):比企尼の嗣子・比企能員(よしかず)は、比企氏の乱(1203年)において、一族とともに北条氏に滅ぼされた。能員・時員(ときかず)親子らの墓は、鎌倉の「妙本寺」にあるが、比企郡川島町中山の「金剛寺」にも後世の一族の墓がある。金剛寺は、能員から十数代を経た天正年間(1573~1593年)に、比企家二十代則員(のりかず)が中興した「比企一族の菩提寺」である。境内の大日堂には、比企一族の位牌が納められ、その裏には江戸時代から現代に続く一族の墓所がある。頼朝の伊豆流罪に伴って、比企尼が帰住したと伝えられる「中山郷」は、川島町西部の越辺川左岸にある「中山地区」であると推定されている。比企尼は、平治の乱後、比企尼は川島町中山に戻り、ここから伊豆の頼朝に食料や衣類などを届けたとされる。


比企一族ゆかりの地/大谷伝説の里(東松山市)比企一族にゆかりの「比丘尼山」、「宗悟寺」、「串引沼」などがある東松山市北部の大谷地区は、「伝説の里」と呼ばれている。「比丘尼山」には、比企尼(頼朝の乳母)と若狭局(比丘尼の孫娘で鎌倉二代将軍頼家の側室)が、頼朝、頼家亡き後、菩提を弔うために結んだ庵があったと伝わる。そこにあった「寿昌寺」が、江戸時代に移され、改名されたのが現在の「宗悟寺」である。寺には若狭局が持参したと伝えられる頼家の位牌が残されている。宗悟寺の近くには、修繕寺谷、梅ケ谷、扇ケ谷などの鎌倉に因んだ地名が残っており、宗悟寺の東の谷(城ヶ谷)の丘陵上には、比企能員の館があったと云わっている。また、近くある「串引沼」には、「若狭局が頼家形見の櫛を投げ入れた」という伝承が残っている。なお、日本市民スポーツ連盟(JVA)認定のウオーキングトレイルが整備されており、鎌倉武士「比企一族」の伝説の地を快適に巡ることが出来る。


比企一族ゆかりの地/和泉三門館跡(滑川町):比企氏(ひきし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀衡の末裔を称する関東の豪族。源義朝(頼朝、範頼、義経の父親)が鎌倉にあって関東の勢力拡張に努め次第に権勢を高めていったころ、義朝は弟の義賢と北武蔵の派遣を巡って激しく争っていた。武蔵国比企郡郡司であった比企遠宗(とうむね)は、主君と仰ぐ義朝から、義賢の勢力拡大を抑えるように命じられて、和泉(現比企郡滑川町和泉三門)に館を構えた。三門館(みかどのやかた)である。義賢の居館(大蔵館:現比企郡嵐山町)とは5キロほどしか離れておらず、義賢打倒の最前線に位置していた。和泉三門の地には、先祖が残してくれた土地や家を守り、八百年の長きにわたり住み続けてきた子孫がいる。


源氏ゆかりの地/歴史の里(嵐山町):「歴史の里」は、木曽義仲にゆかりのある2カ所(「八幡神社」と「斑渓寺」)を結ぶ都幾川左岸堤沿いの散策路である。「八幡神社」には、駒王丸(義仲の幼名)の「産湯の清水」が残っている。「斑渓寺」は、木曽義仲、清水冠者源義高(義仲の長男)、山吹姫(義高の母)の菩提寺である。斑渓寺の境内には木曽屋敷があったとされている。「八幡橋」と「斑渓寺橋」は、欄干が擬宝珠で装飾されており、「歴史の…」の雰囲気を醸し出している。散策路の途中には、休息が出来る「小広場」がある。この散策路は、春には桜並木が見事であるが、彼岸花の名所としても知られている。実際、左岸堤沿いに散策してみたところ、木陰に隠れて表からは見えないが、良く手入れされた群生地があった。また、川辺の土手には、背の高い雑草に深く埋もれてはいたが、数株単位で点々と咲いている彼岸花もあった。

八幡橋

都幾川

小広場

班渓寺橋



 

源氏ゆかりの地/清和源氏始祖の館跡(鴻巣市):県立鴻巣高校に隣接する「城山ふるさとの森」に、清和源氏の始祖である源経基(つねもと)の館跡がある。自宅(東松山市)から、30分程度のドライブ距離にある。館跡は方形(東西約95m/南北約85m)で、北側は鴻巣高校のグランドに接している。館跡は山林となっているが、内部は良く手入れされていた。南西角には解説板が、北東角には館跡碑が建っている。南側と北側にそれぞれの入口がある。西側の小高い丘には「六孫王経基館城址碑」がある。鴻巣高校に接する北側には、土塁・空堀の跡が良く残っていた。経基は、清和天皇の皇子貞純親王の第六子にあたることから「六孫王」と称した。弓道の道に長じ、武勇をもって知られていた(説明板による)。後年、源性を賜って源朝臣を称したが、平安時代中期(938年)に武蔵介となって関東に下り、この地に館を構えたと伝えられている。同時期、平将門の乱(940年)が勃発している。乱後、基経は武蔵守となり、その子の満仲も武蔵権守に任じられた。この2代の間に清和源氏は武蔵国へ勢力を浸透させたが、基経の時代の勢力は、坂東八平氏や嵯峨源氏などに遠く及ばなかった。その後、頼光・義家・義朝・頼朝と続いている。経基は、武田氏、足利氏、新田氏の始祖でもある。

 

全景

説明板(南西角)

道標(南側)

入口(南側)

館跡

館跡・土塁(東側)

城址碑の丘(西側)

六尊王城址碑

城址碑(北東角)

道標(北側)

入口(北側)

土塁空堀(北側)



源氏ゆかりの地/御所息障院(吉見町):吉見町大字御所にある「息障院」の一帯が、「源範頼(みなもとののりより)」の居館跡と伝わる。県道271号線(今泉東松山線)と県道345号線(小八林久保田青鳥線)の交差点のすぐ南西側にある。息障院が現在の地に移ったのは、室町時代と伝えられるが、今なおこの寺の周囲には館建立時に作られた堀の一部が残っている。山門の脇には「県指定史跡 息障院・源範頼館」と記された石碑が建っている。戦国時代から江戸時代の全盛期には、息障院と安楽寺は大伽藍を構成し、戦国時代から江戸時代の全盛期には、末寺百二十余を数え、隆盛を極めたとのこと。現在の寺院は、100m×150mほどの長方形形状になっている。源範頼:平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将であり、源氏の棟梁であった源義朝の六男である。源頼朝は異母兄で、源義経は異母弟である。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松氏)に生まれたので蒲殿と呼ばれていたが、「平治の乱後、比企氏に庇護されて岩殿山に逃げ、幼少期は安楽寺(吉見観音)で稚児僧として暮らした」との伝承が残る。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、のちには、近くにある安楽寺に所領の半分を寄進し、三重塔、大講堂を建立したと伝わる。

 

本堂

境内

鐘楼

山門

館跡史跡

掘の遺構

参道

正門


範頼は、人気・知名度とも弟義経には及ばないが、兄頼朝の代官として木曽義仲、平家追討の大将軍を務め、鎌倉幕府の主力軍を率いて、西国、九州を平定した人物である。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いを掛けられて、伊豆に流されてしまう。やがては暗殺されてしまった。範頼没後、次男の範円、三男の源昭は外祖母の比企尼(妻の祖母で頼朝の乳母)の懇願により命を長らえ、吉見庄を分与された。子孫は御家人として存続し、吉見氏を称したが、やがて謀反の疑いで北条氏に滅ぼされ、吉見氏嫡流は途絶えてしまった。


源氏ゆかりの地/浅間神社(滑川町):浅間神社は、「谷津の里」に隣接する「ふるさとの里/浅間山」の山中に建てられており、参道入口から拝殿まで凝灰岩が露出し、独特の雰囲気がある。参道沿いには、津島神社、雷電神社、などの摂社が建っており、拝殿に至る。拝殿と本殿との間には庭園風の小池/山頂池が築かれており、この池は、どんな干ばつでも枯れることがないと云われている。大蔵合戦(1155年)で、帯刀先生源義賢が義甥・鎌倉悪源太義平に殺害されるが、義賢の家臣数人が福田郷(現滑川町福田)に落ち延び土着し、その子孫が、浅間神社に義賢の霊を祀ったとされる。(なお、木曽義仲の死後、義賢の系統は絶たれたと思っていたが、義仲には、「桜木局」という側室がおり「木曽義次郎」という男児がいた。母が病死したため、十三歳の時、祖父義賢の子孫を頼り、慈光寺近辺に居住した。成人して、母方(信濃国栗本邑)の姓をとり馬場義綱と称した。平邑の娘を娶り、福田郷に移り旧臣馬場源次郎宅の近くに定住した。1205年、主従関係にある二人の馬場家は、福田地内の浅間山に「浅間神社」を創祀し、木花開耶姫命と義賢および義仲の霊を合祀した。とする異説もある。)

本殿

山頂池

拝殿

摂社

参道

鳥居

神社入口

浅間山



源氏ゆかりの地/源義賢の墓(嵐山町)大蔵館跡(大蔵神社)の近くに「源義賢の墓」と「源氏三代供養塔」がある。義賢(よしたか)は、河内源氏の棟梁・為義(ためよし)の次男であり、為義の長男である義朝(よしとも)は義賢の異母兄である。義賢は東宮大仁親王(近衛天皇)を警護する帯刀の長になり「帯刀先生(たちはきのせんじょう)」と称され、その後東国に下り、上野国多胡館(現群馬県多野郡吉井町)を根拠地としたので「多胡先生」とも称された。さらにその後、武蔵国の最大勢力であった秩父重隆(しげたか)の養君として比企郡大蔵に館を構えた。しかしながら、大蔵合戦(1155年)において、義朝の長男・悪源太義平(義賢の義甥)により、攻め殺されてしまう。「源義賢の墓」とされる「五輪塔」は、埼玉県でも最も古式な五輪塔であり、埼玉県指定史跡になっている。「源氏三代供養塔」は「源義賢の墓」の向かいの大行院明神殿(大蔵村義賢村社)にあり、義賢、義仲、義高(義仲の子)の親子三代が供養されている。その他にも、八幡太郎義家(頼朝の曾祖父)、為義(頼朝の祖父)、為義(頼朝の父親)、畠山重能、斎藤別当実盛、などの源氏ゆかり人々の供養塔もある。さらには、「源氏一族一門総供養塔」とならんで「平家一族一門総供養塔」までも建っている。

源義賢公御廟所

源義賢公の墓

五輪塔

源義賢公供養塔



源氏ゆかりの地/木曽義仲生誕の地(嵐山町):「さくら祭り」に合わせて開催予定(4/4)であった「鎌形流鏑馬の奉納」が、新型コロナウイルスの影響により、中止されてしまった。心残りであったため、鎌形流鏑馬との関わりが深い「源義賢・木曽義仲」親子の縁の地を訪問することにした。源義賢は、源氏の棟梁・源為義の次男であり、秩父重隆の娘をめとり、1152年、現嵐山町大蔵に移り住んだとされている。しかし、当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって、関東で義賢の力が増大することを恐れた源為義の長男で異母兄の義朝は、息子の義平(悪源太義平)に命じて、大蔵館を攻め込ませ、義賢とその一族を討たせた(大蔵合戦)。この時、義賢の長男木曽義仲(幼名駒王丸)はわずか2歳であったという。危うい所であったが、畠山重能(秩父氏の一族で畠山重忠の父親)と斎藤実盛(現熊谷市が本拠地の別当)に慈悲を掛けられ、信州の木曽に逃れることが出来た。嵐山町に生まれ、源氏の正しい血を引く義仲が、「木曽義仲」と名乗るのは「信州木曽で成長した」ためである。

嵐山町と近隣には「源義賢・木曽義仲」親子にまつわる多くの伝承と史跡がある。特に、大蔵館跡、鎌形八幡神社、斑渓寺、などが有名である。「鎌形八幡神社」は坂上田村麻呂が勧請した社と伝えられ、鎌倉幕府成立以前の古刹である。この神社は武門、武将の神として信仰され、源義賢、源義仲(木曽義仲)、源義高(義仲の長男)3代の伝説が多く残り、源氏の氏神として信仰されている。この神社には、駒王丸(義仲の幼名)の産湯の清水が残っている。「斑渓寺」は曹洞宗の寺で、木曽義仲、清水冠者源義高(義仲の長男)、山吹姫(義高の母)の菩提寺である。斑渓寺の境内には木曽屋敷があったとされている。

大蔵館跡(大蔵神社)

鎌形八幡神社

義仲産湯の清水

斑渓寺



比企三山巡り/岩殿山安楽寺(吉見町):最後の参拝先は、吉見町の岩殿山安楽寺であった。「坂東三十三観音霊場の十一番札所」であり、古くから吉見観音として親しまれてきた。真言宗智山派の寺院で、本尊は聖観世音菩薩である。東松山とは県道271号線(今泉東松山線)で結ばれている。今から約1,200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩が、観世音菩薩の像を彫って、この地の岩窟に納めたことが始まりとされている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼が幼少期に身を隠していたと伝えられている。かつては、安楽寺の東約500mにある息障院(伝範頼館跡)とともに「一つの大寺院を形成していた」とのこと。ただし、残念ながら、戦国時代(1537年)後北条氏との戦乱により全ての伽藍が消失してしまった。現在の本堂、三重塔、仁王門は、江戸時代に再建されたものであり、町指定文化財になっている。

安楽寺

本堂

三重塔

納経堂

表参道

仁王門

仁王像(阿形)

仁王像(吽形)



比企三山巡り/慈光寺(ときがわ町):2月は、ときがわ町の慈光寺(坂東三十三観音霊場の九番札所/創建673年)とした。開山1,300年の山寺であり、平安時代になるといっそう隆盛し、鎌倉時代になると源頼朝から戦勝祈願の寺として多大な寄進を受け、大寺院として隆盛を極めたとのこと。本尊は、千手観音(観音堂)と阿弥陀如来(本堂)である。国宝(慈光寺経、法華経一品経)、重要文化財(貞観大般若経、寛元の銘梵鐘、など)の多くの文化財が現存している。東松山の自宅からは、国道254号線バイパスと県道172号線(大野東松山線)を利用すると、慈光寺までは1時間程度のドライブ距離にある。観音堂下と宝物殿下に無料駐車場があり、慈光寺下まで自家用車で行ける。なお、山麓にある浄光寺入口バス停から山上の本堂まで徒歩で登ると、90分程度はかかるようである。

案内図

浄光寺石碑

山門・本堂

宝物殿

鐘楼

観音堂

観音堂

般若心経堂


2月は参拝シーズンではないが、この時期(2/20)に慈光寺を訪れたのは、「ロウバイ/河津桜/梅が同時に咲いている」との情報があったからである。山麓から慈光寺に至る参道の両側には五十種以上のさくらが植えられており、春になると豪華爛漫に咲き誇るとのこと(近隣の各種さくらと共に「里さくらコレクション」と呼んでいる)。また、慈光寺は「シャガ」の群生地としても知られている。 

ロウバイ

河津桜

白梅

梅林



比企三山巡り/岩殿観音(東松山市):坂東三十三観音霊場の「慈光寺/九番札所/創建673年」、「正法寺(岩殿観音)/十番札所/創建718年」と「安楽寺(吉見観音)/十一番札所/創建806年」は飛鳥時代から平安時代初期に開山された名刹であり、「比企三山」と称されている。これらの名刹を年初の3ヶ月間(1月/2月/3月)に巡ることにし、地元の「正法寺岩殿観音)」を最初の参拝先とした。本尊は千手観音(観音堂)と阿弥陀如来(本堂)である。鎌倉時代初期に源頼朝の命で復興され、頼朝の妻北条政子の守り本尊であったと伝わっている。大イチョウやアジサイの名所としては幾度か訪問していたが、坂東三十三観音霊場として参拝したのは今回が初めてであった。観音堂(創建673年)、梵鐘(鋳造1,322年)、仁王門、本堂、などをあらためて観て廻った。

 

 

正法寺

観音堂

鐘楼

本堂

表参道

仁王門

阿形

吽形



流鏑馬祭り@萩日吉神社/比企郡ときがわ町:萩日吉神社の「流鏑馬」は、3年に一度、1月第3日曜日(本年は1/19)に奉納される。萩日吉神社は、古墳時代末期(西暦537年)の創建とされ、東松山市とは県道172号線(大野東松山線)で結ばれている。自宅からは30分程度のドライブ距離にある。ときがわ町の流鏑馬は、木曽義仲を供養したものである。義仲の家臣7氏によって奉納されたのが始まりと伝えられている。家臣7名は明覚郷(ときがわ町)と大河郷(小川町)の2郷に住んでいたとされ、家臣7名の子孫らが準備を担っているとのこと。流鏑馬祭りは、「午前10時からの神社参拝/交通安全祈願/鎮火祭/直会などを執行する朝まとう」と「午後3時からの流鏑馬を行う夕まとう」の2部構成であった。明覚郷と大河郷からの主役一行は、それぞれに設営した陣場で、馬の世話をするなどして、「夕まとう」が始まるまで待機していた。また、神社境内においては「小神楽」が演じられていた。神楽と境内の社叢は、流鏑馬とともに、埼玉県の文化財に指定されているとのこと。

申の刻(午後3時)になると、大きな花火が打ち上げられ、流鏑馬祭りのクライマックスである「夕まとう」が始まった。数百人規模の観衆が見守る中、神官を先頭に、明覚郷・大河郷の一行が入場してきた。場所は、萩日吉神社と萩ヶ丘小学校の間の特設馬場である。今年が初観戦であり理解不十分ではあるが、流鏑馬の手順は、(1)馬場元(始点)で何十本もの矢を放つ(「四方固め」)、(2)「矢取りっ子/子供」と「介添役(弓持ち)/子供の父親」が走って馬場末(終点)に向かう、(3)「一の馬」の乗子が疾走しながら的に向かって矢を射る、(4)「二の馬」の乗子が疾走しながら的に向かって矢を射る、(5)馬場末で待機していた介添役(弓持ち)に弓を渡す、(6)「矢取りっ子」/「介添役」が弓を持って馬場元に走って戻る、(7)二人の乗子が全力疾走し馬場元に戻る、であった。この手順を所定回数(3回)繰り返していた。最後には、「扇(鞭)を持って疾走する」演舞も披露して貰えた。大きい神馬に騎乗した乗子(騎馬武者)の凛々しさが印象に残った。

前日は粉雪が舞う寒い日であったが、当日は気温も比較的高く、快適な祭り日和であった。大観衆とカメラマンの多さには驚かされた。道産子の小生にとっては、自宅から30分程度の場所で、「古墳時代に創建された神社で、鎌倉時代に開始された伝統行事が現在まで継承されている」などは信じられない(?)出来事であった。