郷土巡り2021



文化財巡り/建造物/日野岡家住宅長屋門(鳩山町須江):国登録有形文化財。江戸時代後期(1800年頃)の建築で、里修験(地域の町や村に定着した修験者)であった瑠璃光院(光雲寺宮本坊)の長屋門である。東西棟の寄棟造り、もと茅葺、桁行15.7m、梁間4.6mである。形式は簡素であるが、丁寧なつくりである。周辺の里山の風景に溶け込んでいる。「長屋門」とは、近世諸大名の城郭、陣屋、武家屋敷の門として発生した形式で、江戸時代に多く建てられた。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などの長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟としたものが長屋門の始まりである。西方向へ100m程のところに、「須江黒石神社」がある。また、住宅前の道路には、「枡井戸遺跡」がある。

須江黒石神社(西隣)

日野岡家住宅長屋門

桝井戸遺跡(東隣)



文化財巡り/建造物/鈴木家住宅(川島町):江戸時代に宮前村(現川島町宮前)の名主を務めた旧家、鈴木家の住まいで、川島町のほぼ中心地に位置している。鈴木家住宅主屋、土蔵は、外観や意匠に建築当時の時代性や地方色を表す特徴が見られ、当地の近世上層農家の好例と云えることから、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当するとして、2016年(平成28年)に、国有形文化財(建造物)に登録された。主屋:江戸中期頃(約300年前)の建築とされ、建築面積約200平米、木造平屋一部小屋裏、寄棟瓦葺(後中門型式)造りである。現状の間取りは、東側が土間で、西側の2間ずつ3列並ぶ6間構成で、土間と北側の2間の小屋裏には部屋が設けられている。主屋の正面には、瀟洒な中庭(庭園)が配置されている。なお、主屋の西側には、鈴木家の現住居が付随している。土蔵:主屋の東側に建てられている。1877年(明治10年)頃の建築と推定され、「米蔵」として使用された。土蔵造2階建で、屋根は瓦葺、切妻造であり、外壁は漆喰仕上げを基調としている。

正門

主屋

土蔵


前庭

庭園

現住居



文化財巡り/建造物/旧遠山邸(川島町):旧遠山邸は、川島町出身で日興証券の設立者である遠山元一が、生家再興と母の安住の住まいとして、当時最高の建築技術と、全国から集めた銘材を使って建てられた。1936年(昭和11年)に居住部分が建てられ、その後、茶室などが整備された。東棟は生家の再興を象徴する豪農風、中棟は貴顕の来客を接待する室礼の書院造り、西棟は母のための数寄屋造りという建築様式を異なる趣の3棟を渡り廊下で結ぶ構成となっている。各棟とも多様に吟味された良材を使用し、卓越した技術が駆使されている。2000年(平成12年)に国の有形文化財に登録され、2018年(平成30年)には、東棟・中棟・土倉・茶室など9棟が国の重要文化財に指定された。また、旧遠山邸宅以外にも、国指定の重要文化財を所蔵・公開している美術館が隣接している。長屋門(入口)をくぐり、右(東)方向に進むと、美術館に至る。美術館内に総合受付(有料)があり、美術館を経由してから、旧遠山邸に入れる順路構成になっている。邸宅の表玄関は、東棟にある。ここで下足すれば、邸宅内部を自由に参観することができる。中棟・本館の正面に庭園(中庭)がある。

長屋門

美術館

東棟・表玄関


西棟

中棟・本館

東棟



文化財巡り/建造物/吉田家住宅(小川町): 国指定重要文化財。吉田家住宅は、享保6年(1721年)に建築された、実年代のわかる県内最古の民家で、平成元年(1988年)に国の重要文化財建造物に指定されている。建物の規模は、桁行21.8m、梁間10.5mである。茅葺、入母屋造りの大きな民家で、間取りは『三間広間型』と呼ばれる奥に2間の畳敷きの座敷、手前に広い板間がある江戸時代の典型的な構造である。座敷の上には2階がある。板間には囲炉裏がきられ、土間の中央やや北側には大きな一口かまどがある。長い年月が経過したことで、建物の傷みが顕しかったことから、平成8年度から3カ年かけて、前面解体修理が行われた。現在は、瀟洒な「古民家レストラン」に改装されている。


史跡巡り/足利基氏の塁跡(東松山市):足利基氏は、南北時代に活躍した武将で、足利尊氏の次男として慶應年間(1340年)に生まれた。初代鎌倉公方に任じられ、関東平定に明け暮れた。特に武蔵武士掌握のため入間川(狭山市)に拠点を構えていたので、入間川殿と呼ばれた。足利基氏館跡(東松山市有形文化財)は、高坂台地西側の斜面にあり、岩殿観音の入口にあたる弁財沼が近くにある。1362年に、芳賀高貞(宇都宮一族で下野の豪族)が反乱を起こした「岩殿山合戦」の際の本陣跡と云われている。東西180m程、南北50m~70m程の規模である。館跡の南側は九十九川に面して広く開けており、後背地は土塁空堀で囲んだ防御構造となっている。東側~北側~西側の境界には、連続する堀跡が現存しているので、館跡の構造・規模が体感できる。右(東)側の堀跡は段々畑になっており、脇には、散策路が造られている。散策路の入口には指標「足利基氏の塁跡」があり、奥の方には案内板が建っている。ただし、案内板の表面は劣化が激しく、内容を判読するのは難しかった。北側(斜面奥)の堀跡はゴルフ場に面している。左(西)側の堀跡・土塁は、弁財池を近くに見渡せる位置にある。

 


史跡巡り/古代窯跡(比企郡):武蔵国には、四大窯跡群(八王子、入間郡、比企郡、大里郡)がある。とくに、比企郡には、埴輪・須恵器を生産した「初期窯跡」がまとまって存在しており、他の地域では見られない貴重な遺跡が残っている。奈良・平安時代になると、古代寺院や国分寺の瓦や須恵器の生産が行われ、武蔵国の中でも一大窯業地帯となった。埴輪・須恵器窯跡:西暦600年前後、和名(吉見町和名)、桜山(東松山市高坂)、五厘沼(滑川町羽尾)で埴輪、須恵器の生産が始まった。瓦窯跡:古代寺院が出現した7世紀以降は、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。この時期に、鳩山町赤沼や東松山市大谷において瓦の生産が始まった。なお、これらの古代窯跡の全てが、自宅(東松山市)から30分程度のドライブ距離にある。

和名埴輪窯跡(5世紀後半~)県指定史跡:和名沼に面した台地斜面に築造。発掘調査(1974年)で、4基の窯跡が発見。吉見丘陵にある多くの古墳に使用された。

桜山埴輪窯跡群(6世紀初頭~)市指定史跡:物見山丘陵の南斜面に築造。発掘調査(1977年)に発掘調査が実施された。跡地には、窯跡の形に合せて、植木を植栽。

五厘沼窯跡(6世紀末~)県指定史跡:五厘沼に向かった斜面に築造。北武蔵のなかで最も古い須恵器窯跡と云われている。近くに、武蔵最古の古代寺院がある。

赤沼古代瓦窯跡(7世紀後半~)県指定史跡:鳩山町の農村公園内にある。武蔵国分寺創建よりも半世紀ほど古い瓦窯跡と云われている。窯跡の保存状態が良い。

石田国分寺瓦窯跡(8世紀中頃~)県指定史跡:新たな国分寺瓦を製造した窯跡。現在は、赤沼窯跡から100m程離れた跡地に、解説板が建っているだけである。

大谷瓦窯跡(8世紀末~)国指定史跡: 大谷地区の丘陵斜面に築造。発掘調査(1955年)で確認された窯跡(2基)の中で、ほぼ完全な形を残す1基を保存している。



史跡巡り/武蔵最古の寺院(滑川町羽尾):武蔵の寺の多くは、中央政府の仏教普及政策によるものであり、その多くは豪族の氏寺であった。それまでは古墳築造で力を誇示していた豪族たちが、新しい時代の波に乗って、今度は寺院造営に力を注いだのである。武蔵には少なくとも18の古代寺院があったとされるが、寺谷廃寺が「武蔵最古の寺院」と考えられている。創建は、遺跡から出土した瓦が大和の飛鳥時代(592年~710年)の寺と似ていることから、7世紀前半と推定されている。奈良の法隆寺(創建607年)などにわずかに遅れるだけであったと推定されている。(インターネット情報による。)寺谷廃寺跡は、「興長禅寺」の裏山(丘陵)にある。踏索してみると、跡地は伐採伐根されており、かなりの広さの平地になっている。発掘調査中のようである。なお、近くにある五厘沼窯跡は、北武蔵最古の須恵器窯とされ、古代寺院の瓦製造を担ったとされる。

廃寺跡マップ

興長禅寺裏山

廃寺跡(調査区域)

廃寺跡(調査区域)

興長禅寺

五厘沼窯跡



史跡巡り/埼玉県最古の古墳(東松山市古凍):古墳時代は、3世紀半ば~7世紀末頃までの約400年間である。比企丘陵は、北埼玉や児玉地方とともに古くから発達した地域であり、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところである。東松山市にも多数の古墳がある。なかでも、根岸稲荷神社古墳は、いまのところ、埼玉県最古の古墳とされている。築造時期は、出土土器等から、「弥生から古墳へと時代が移行する3世紀代」と考えられている。また、県内では数えるほどしかない古式の前方後方墳であることも判明している。古墳の規模は、「全長約25m、後方部の一辺は約20m」と推定されている。ただし、前方部と後方部先端は消失してしまっている。(以上:東松山HP等参照。)中心部が小高い丘(墳丘)になっており、頂上に社が鎮座している。現地を巡ってみて、「この古墳が古代から大事に保存されてきた」ことが理解出来た。


古社巡り/箭弓稲荷神社(東松山市):創建は和銅5年(712年)であり、武蔵国最古の稲荷神社と云われている。明治29年に郷社に列格、大正12年には県社に昇格、現在は神社本庁の別表神社になっている。自宅から、徒歩10数分の距離にあり、毎年、初詣に参拝している。創建当時は小さな祠だったようであるが、下総国千葉城の城主平忠常が反乱(1030年)を起こした際、忠常追討を命じられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信が、当神社に祈願後反乱を制圧できたことから、「箭弓稲荷大明神」と称え、社殿を再建した。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。その後、中世の兵乱で衰微したものの、天海僧正(東叡山寛永寺の開祖)が当地を通行の際に当社のことを知り再建した。現在では、稲荷五大神社の一社とも云われている。注釈:神社本庁とは伊勢神宮を本宗とし、全国約8万社の神社を包括する宗教法人である。由緒正しく比較的大きな規模の神社を別表神社とし、現在では、全国で3百数十社が選ばれている。埼玉県における別表神社は9社である。箭弓稲荷神社HP、Wikipedia、その他のインターネット情報による。

境内:かつては広大な敷地を持っていたが、駅前に位置していることもあり、ホテル、自動車学校、テニスコートなどに代ってしまったとのこと。現在の社殿は、豪壮な権現造りで、天保年間(1835年)に造営された。元宮は本殿の真後ろに鎮座しており、享保年間(1716年~1735年)以前の建立と推定され、境内では最も古い建造物である。手水舎は元宮についで古い建物である。社殿は県指定文化財、元宮社と手水舎は市指定文化財になっている。境内には、その他に、神楽殿、縁結びの木、穴宮(團十郎稲荷)、天神社、記念館、などが建っている。

本殿・拝殿

元宮

拝殿(正面)

手水舎

参集殿(社務所)

神楽殿

鳥居

縁結びの木


社彫刻:本殿を中心とした彫刻が素晴らしく、必見とされる。ここの工事は、極彩色彫刻で有名な「国宝/蓼沼聖天山」に係わった「武州川原明戸村(現在の熊谷市)の飯田家」が携わった。江戸中期の吉宗倹約令などにより、江戸後期の彫刻は極彩色でなく、素木造りとなっているが、当社の彫刻は、モチーフを色で表現できない分、彫りが深くシャープになっているという。本殿の外周の数ヶ所に、彫刻の位置に対応して、説明パネルが設置されている。撮影できた彫刻の幾つかを下記に列挙する。

鳳凰

海馬

神獣の頭部

水犀

二龍

山椒魚

仙人の烏鷺


牡丹園:大正12年(1923年)に東武東上線の東松山駅開通と同時に開園した由緒あるぼたん園である。約3,500m2の園内には、1,300余株の牡丹を有し、神社の牡丹園としては関東一の規模を誇っている。園内にある藤の樹は、推定寿命が250年以上と云われ、延命(ながらへ)のフジと名付けられ毎年美しい紫の花を咲かせている。4月中旬~5月上旬には、東松山ぼたん園(東松山市大谷)と同時期に、「東松山ぼたんまつり」が開催される。



古社巡り/横見群三座(吉見町)古代武蔵国の横見郡があった吉見町は、比企丘陵の東端に位置し、標高は30mから80mで、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のいたるところに枝状の谷が発達し、古くから人々が生活した跡が残っている。吉見町は小さいところだが、古墳群がのこり、「延喜式内社」が3社もあることから、この地域が古くからの開発地域であったことが分かる。これらの3神社は、横見郡三座(高負彦根神社・横見神社・伊波比神社)といわれ、和銅年間(708年~715年)に創建された格式のある神社である。現在の比企地方にある延喜式内社は、滑川町の比企郡一座(伊古乃速御玉比売神社)と横見郡三座の4社に過ぎない。ちなみに、「延喜式内社」とは、平安時代中期に編纂された『延喜式』の神名帳(じんみょうちょう)に記載されている格式のある神社をさす。参考文献:「新編武蔵風土記稿」・「埼玉の神社」/埼玉県神社庁・その他。

高負彦根神社吉見町田甲に鎮座する和銅3年(710年)に創建された古社(旧村社)である。横見郡三座のなかでは最も古く、奈良時代には既に官社になっている。ちなみに、高負彦根神社の「高負」は、この地の地名「田甲」に通じる。周辺には、「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。田甲の地は、旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに玉鉾山が突き出ており、その頂上にこの神社が鎮座している。社殿の後方に「通称ポンポン山」と呼ばれる小山があり、その前面に広がる直下20mの平地は、古代荒川の流路であったとのこと。この神社は、横見郡三座の中では最も名が知られており、観光客が訪れる人気のスポットになっている。

横見神社吉見町御所に鎮座する延喜式内社(旧郷社)であり、『吉見』の地名の元になった古社である。吉見町御所は、吉見丘陵の東端に近い平地にあり、付近には、古墳時代の集落跡・古墳(稲荷前古墳や御所古墳群)がある。本殿も古墳の上に鎮座している。ちなみに、御所の地名は、平安時代から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内にあったことから名付けられている。吉見氏は、源頼朝の弟、範頼、の子孫であり、13世紀末まで四代にわたり当地を支配した。なお、横見神社は、慶長年間(1250年前後)の大洪水に流され、御神体が漂着したとされる南の同町久保田には、分社の「横見神社」がある。

伊波比神社:吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する延喜式内社(旧村社)である。喜祥2年(849年)十五位下、貞観元年(859年)に磐井社として官社に列各したとされる。杉林に囲まれて、ひっそりと佇んでいる。社殿は東側を向いており、わずか300m位の正面には横見神社が鎮座している。まるで、平地に鎮座する大社を高台から見守るかのような位置関係にある。ただし、旧境内は、現在の社殿の西方にある「八幡台」にあり、応永初年(1394年)ごろに現在地に移転したと伝っている。


古社巡り/萩日吉神社(ときがわ町西平):萩日吉神社(はぎひよしじんじゃ)は、社伝によると、古墳時代後期(544年)に蘇我稲目(そがのいなめ)により創建された。稲目は、馬子らの父親で、娘3人を天皇に嫁がせた、古墳時代の豪族である。当初は、萩明神と称されたが、平安時代初期に慈光寺山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称されたと云われている。両寺社は、鎌倉時代には、源頼朝と北条政子により多大な寄進を受けている。正面鳥居(入口)から本殿に至る参道は、「正面鳥居~石段~内部鳥居」~「内部鳥居~石段~境内」の2段階になっている。境内には、本殿と神楽殿が建っている。神楽は無形民俗文化財であり、境内の社叢(天然記念物)は、埼玉県の文化財に指定されている。

正面鳥居をくぐると、右脇に「児持杉(町指定天然記念物)」が聳え立っている。男スギ(参道前:幹周6.5m/樹高40m)と女スギ(参道奥:幹周8.9m/樹高40m)の2本からなっている。ともに推定樹齢は800年である。並び立つ2本の巨木で、枝分かれが多いことが由来(夫婦で子沢山?)したのか、児持杉には子供を授かる信仰があり、根本には社が祀られている。

なお、3年に一度開催される「流鏑馬」が有名である。次回の開催は、2023年1月第3日曜日に予定されている。萩日吉神社の流鏑馬は、木曾義仲の家臣7苗によって奉納されたのが始まりと伝えられている。この7苗とは、荻窪氏・馬場氏・市川市/明覚郷(ときがわ町)、横川氏・加藤氏・伊藤氏・小林氏/大河郷(小川町)である。現在に至るまで、これら家臣の子孫が継承して来たとのこと。


古社巡り/伊古乃速御玉比売神社(滑川町):本年は、平安時代以前の古代に創建された古社(伊古乃速御玉比売神社/萩日吉神社/高負彦根神社/箭弓稲荷神社)を巡ることにした。最初の訪問先を、比企地方最古の神社創建:古墳時代中期449年~460年)と云われる「伊古乃御玉比売神社(いこのはやみたまひめじんじゃ)」にした。滑川町の「伊古の杜」に鎮座する神社で、蘇我石川宿祢(蘇我氏およびその同族の伝説上の祖)の子孫が二ノ宮山の山頂に創建したと伝わる。前方後円墳の時代である。平安時代に編纂された延喜式内社、比企総社、郷社の社格を持った由緒正しい神社である。文明元年(1469年)に、現在地へ遷座されたと云わっている。まわりの自然林は、県の天然記念物に指定されている。

奥社(本社)は、創建時の場所である二ノ宮山の山頂に鎮座している。二ノ宮山の山頂(標高132m弱)には、町のシンボルとして建てられた展望塔がある。高さは、歴史的区切りとなる21世紀にちなんで、21mとしたとのこと。展望台は眺めがよく、比企丘陵の眺望はもちろん、遠く秩父連峰や新宿の高層ビル群など関東一円が見晴らせる。