郷土探訪2021

更新日:2021/04/14



古社巡り/箭弓稲荷神社(東松山市):創建は和銅5年(712年)であり、武蔵国最古の稲荷神社と云われている。明治29年に郷社に列格、大正12年には県社に昇格、現在は神社本庁の別表神社になっている。自宅から、徒歩10数分の距離にあり、毎年、初詣に参拝している。創建当時は小さな祠だったようであるが、下総国千葉城の城主平忠常が反乱(1030年)を起こした際、忠常追討を命じられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信が、当神社に祈願後反乱を制圧できたことから、「箭弓稲荷大明神」と称え、社殿を再建した。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。その後、中世の兵乱で衰微したものの、天海僧正(東叡山寛永寺の開祖)が当地を通行の際に当社のことを知り再建した。現在では、稲荷五大神社の一社とも云われている。注釈:神社本庁とは伊勢神宮を本宗とし、全国約8万社の神社を包括する宗教法人である。由緒正しく比較的大きな規模の神社を別表神社とし、現在では、全国で3百数十社が選ばれている。埼玉県における別表神社は9社である。箭弓稲荷神社HP、Wikipedia、その他のインターネット情報による。

境内:かつては広大な敷地を持っていたが、駅前に位置していることもあり、ホテル、自動車学校、テニスコートなどに代ってしまったとのこと。現在の社殿は、豪壮な権現造りで、天保年間(1835年)に造営された。元宮は本殿の真後ろに鎮座しており、享保年間(1716年~1735年)以前の建立と推定され、境内では最も古い建造物である。手水舎は元宮についで古い建物である。社殿は県指定文化財、元宮社と手水舎は市指定文化財になっている。境内には、その他に、神楽殿、縁結びの木、穴宮(團十郎稲荷)、天神社、記念館、などが建っている。

本殿・拝殿

元宮

拝殿(正面)

手水舎

参集殿(社務所)

神楽殿

鳥居

縁結びの木


社彫刻:本殿を中心とした彫刻が素晴らしく、必見とされる。ここの工事は、極彩色彫刻で有名な「国宝/蓼沼聖天山」に係わった「武州川原明戸村(現在の熊谷市)の飯田家」が携わった。江戸中期の吉宗倹約令などにより、江戸後期の彫刻は極彩色でなく、素木造りとなっているが、当社の彫刻は、モチーフを色で表現できない分、彫りが深くシャープになっているという。本殿の外周の数ヶ所に、彫刻の位置に対応して、説明パネルが設置されている。撮影できた彫刻の幾つかを下記に列挙する。

鳳凰

海馬

神獣の頭部

水犀

二龍

山椒魚

仙人の烏鷺


牡丹園:大正12年(1923年)に東武東上線の東松山駅開通と同時に開園した由緒あるぼたん園である。約3,500m2の園内には、1,300余株の牡丹を有し、神社の牡丹園としては関東一の規模を誇っている。園内にある藤の樹は、推定寿命が250年以上と云われ、延命(ながらへ)のフジと名付けられ毎年美しい紫の花を咲かせている。4月中旬~5月上旬には、東松山ぼたん園(東松山市大谷)と同時期に、「東松山ぼたんまつり」が開催される。



古社巡り/横見群三座(吉見町)古代武蔵国の横見郡があった吉見町は、比企丘陵の東端に位置し、標高は30mから80mで、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のいたるところに枝状の谷が発達し、古くから人々が生活した跡が残っている。吉見町は小さいところだが、古墳群がのこり、「延喜式内社」が3社もあることから、この地域が古くからの開発地域であったことが分かる。これらの3神社は、横見郡三座(高負彦根神社・横見神社・伊波比神社)といわれ、和銅年間(708年~715年)に創建された格式のある神社である。現在の比企地方にある延喜式内社は、滑川町の比企郡一座(伊古乃速御玉比売神社)と横見郡三座の4社に過ぎない。ちなみに、「延喜式内社」とは、平安時代中期に編纂された『延喜式』の神名帳(じんみょうちょう)に記載されている格式のある神社をさす。参考文献:「新編武蔵風土記稿」・「埼玉の神社」/埼玉県神社庁・その他。

高負彦根神社吉見町田甲に鎮座する和銅3年(710年)に創建された古社(旧村社)である。横見郡三座のなかでは最も古く、奈良時代には既に官社になっている。ちなみに、高負彦根神社の「高負」は、この地の地名「田甲」に通じる。周辺には、「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。田甲の地は、旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに玉鉾山が突き出ており、その頂上にこの神社が鎮座している。社殿の後方に「通称ポンポン山」と呼ばれる小山があり、その前面に広がる直下20mの平地は、古代荒川の流路であったとのこと。この神社は、横見郡三座の中では最も名が知られており、観光客が訪れる人気のスポットになっている。

横見神社吉見町御所に鎮座する延喜式内社(旧郷社)であり、『吉見』の地名の元になった古社である。吉見町御所は、吉見丘陵の東端に近い平地にあり、付近には、古墳時代の集落跡・古墳(稲荷前古墳や御所古墳群)がある。本殿も古墳の上に鎮座している。ちなみに、御所の地名は、平安時代から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内にあったことから名付けられている。吉見氏は、源頼朝の弟、範頼、の子孫であり、13世紀末まで四代にわたり当地を支配した。なお、横見神社は、慶長年間(1250年前後)の大洪水に流され、御神体が漂着したとされる南の同町久保田には、分社の「横見神社」がある。

伊波比神社:吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する延喜式内社(旧村社)である。喜祥2年(849年)十五位下、貞観元年(859年)に磐井社として官社に列各したとされる。杉林に囲まれて、ひっそりと佇んでいる。社殿は東側を向いており、わずか300m位の正面には横見神社が鎮座している。まるで、平地に鎮座する大社を高台から見守るかのような位置関係にある。ただし、旧境内は、現在の社殿の西方にある「八幡台」にあり、応永初年(1394年)ごろに現在地に移転したと伝っている。


古社巡り/萩日吉神社(ときがわ町西平):萩日吉神社(はぎひよしじんじゃ)は、社伝によると、古墳時代後期(544年)に蘇我稲目(そがのいなめ)により創建された。稲目は、馬子らの父親で、娘3人を天皇に嫁がせた、古墳時代の豪族である。当初は、萩明神と称されたが、平安時代初期に慈光寺山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称されたと云われている。両寺社は、鎌倉時代には、源頼朝と北条政子により多大な寄進を受けている。正面鳥居(入口)から本殿に至る参道は、「正面鳥居~石段~内部鳥居」~「内部鳥居~石段~境内」の2段階になっている。境内には、本殿と神楽殿が建っている。神楽は無形民俗文化財であり、境内の社叢(天然記念物)は、埼玉県の文化財に指定されている。

正面鳥居をくぐると、右脇に「児持杉(町指定天然記念物)」が聳え立っている。男スギ(参道前:幹周6.5m/樹高40m)と女スギ(参道奥:幹周8.9m/樹高40m)の2本からなっている。ともに推定樹齢は800年である。並び立つ2本の巨木で、枝分かれが多いことが由来(夫婦で子沢山?)したのか、児持杉には子供を授かる信仰があり、根本には社が祀られている。

なお、3年に一度開催される「流鏑馬」が有名である。次回の開催は、2023年1月第3日曜日に予定されている。萩日吉神社の流鏑馬は、木曾義仲の家臣7苗によって奉納されたのが始まりと伝えられている。この7苗とは、荻窪氏・馬場氏・市川市/明覚郷(ときがわ町)、横川氏・加藤氏・伊藤氏・小林氏/大河郷(小川町)である。現在に至るまで、これら家臣の子孫が継承して来たとのこと。


古社巡り/伊古乃速御玉比売神社(滑川町):本年は、平安時代以前の古代に創建された古社(伊古乃速御玉比売神社/萩日吉神社/高負彦根神社/箭弓稲荷神社)を巡ることにした。最初の訪問先を、比企地方最古の神社創建:古墳時代中期449年~460年)と云われる「伊古乃御玉比売神社(いこのはやみたまひめじんじゃ)」にした。滑川町の「伊古の杜」に鎮座する神社で、蘇我石川宿祢(蘇我氏およびその同族の伝説上の祖)の子孫が二ノ宮山の山頂に創建したと伝わる。前方後円墳の時代である。平安時代に編纂された延喜式内社、比企総社、郷社の社格を持った由緒正しい神社である。文明元年(1469年)に、現在地へ遷座されたと云わっている。まわりの自然林は、県の天然記念物に指定されている。

奥社(本社)は、創建時の場所である二ノ宮山の山頂に鎮座している。二ノ宮山の山頂(標高132m弱)には、町のシンボルとして建てられた展望塔がある。高さは、歴史的区切りとなる21世紀にちなんで、21mとしたとのこと。展望台は眺めがよく、比企丘陵の眺望はもちろん、遠く秩父連峰や新宿の高層ビル群など関東一円が見晴らせる。